2014年11月20日木曜日

父の受けた震災

一般に「洪水」といわれる事象の中には、「内水氾濫」、「外水氾濫」の2種類があります。
内水氾濫とは下水処理能力を超える雨が降り、下水があふれて洪水にいたること。
そして、外水氾濫は大雨で雨水が大量に川に流れ込み、川が堤防を越えたり、堤防が決壊して水害が発生することです。

ですから、東日本大震災は、外水氾濫になります。
ここでの外水氾濫とは、川の水が堤防からあふれる、または川の堤防が破堤した場合に起こる洪水を言うわけです。

仙台でも、 戦後、カスリン台風(1947年9月)、ア イオン台風(1948年9月)や、1950年8月の熱帯性低気圧などの大規模水害を契機に、堤防やダムの整備が進みました

特に8月の水害は大きな爪跡を残しています。8月洪水の原因は、熱帯性低気圧によるもので、この低気圧に伴って流入した温暖な海洋性赤道気団が、三陸沖を移動しつつあった冷気団に衝突したことにより記録的豪雨の長雨となったものです。名取流域の笹谷、作並といった山地部では、日雨量がそれぞれ380mm、396mmを記録し、平地の仙台においても168mmを記録し、8月 1日から8月5日までの連続雨量は、山地部では軒並み400mmを超え、笹谷では555mmにも達しました。この豪雨により名取川、広瀬川、多田川、吉田 川などが破堤し、大きな被害をもたらしました。
この時代は、私の父が、東北帝国大学医学専門学校で学んでいた時代に当たります。

東北大学の寄宿舎も壊滅的な被害を受け、第2次世界大戦の爪あとも深い中、絶望的な状況に陥った友人も多かったようです
貧困も多い時代でした

母の通った愛宕地区も壊滅的な水害を受けています、286街道沿いのあたりでしょうか?


今は、ボートで遊べる宮沢橋も、水害に耐えられず壊滅したそうです。河原の土手の手前も、広瀬川も、同じく川のようです







堤防やダムで、仙台市では、外水氾濫は急激に減りましたが、 内水氾濫の被害は逆に増加していて、都市部の洪水災害の8割以上は内水氾濫です。

つまり、皆さんがテレビなどで目にする冠水した道路を走る車の映像は今は多くが内水氾濫が原因による水害なのです。
宮城県にはアーカイブが残されています

http://www.hirosegawa-net.com/life/life02.html
http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/kasen/suigai-s25-kouzui.html

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